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サーチナニュースに<北京女人天下>というのがあります。
何本か載っています。
読み応えがあるので転載してみます。
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サーチナニュース 2011/11/08(火) 10:46
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=1108&f=column_1108_006.shtml
<北京女人天下>『ViVa』モデルに憧れたモンゴル族女性
玲玲は、いまでもそこはかとなく祖父のことを尊敬している。
祖父は、玲玲が中学生に上がった年に、脳溢血を起こして急逝した。
いつものように昼間から、「河套王」(内蒙古自治区の白酒)をグラスで呷っていて、「アーッ!」と声を挙げるや、そのまま椅子から転げ落ちて動かなくなってしまった。
内蒙古特有の盛夏の午後の強烈な日差しが窓から差し込み、祖父の硬直した痘痕の皮膚を照らし出していたのを覚えている。
モンゴル人にしては珍しく長身だった祖父は、「我が家の家系」を何より誇りにしていて、
「お前にはフビライ大王の血が流れているのだ」
と、玲玲に繰り返し言い聞かせた。
祖父の言によれば、かつてはこのアジア大陸の全土が、フビライ大王の所有物だった。
フビライ大王の傍系の末裔を自任する祖父は、1930年の冬に、モンゴル人民共和国の首都、ウランバートル郊外で生まれた。
その後の混乱を経て、祖父が包頭(内蒙古自治区北部)の郊外に定住を始めたのは解放後のことで、それまでは遊牧民として、「草原を吹く風のように」季節に応じて遊牧していたという。
祖父は文化大革命で再度、徹底的に痛めつけられ、挙げ句に妻を失った。
以後、魂が抜けたようになり、これといった定職に就かなかった。
玲玲の記憶にある祖父は、白い顎鬚をたくわえ、キセルを咥えて、部屋の窓際の壁に凭れかかるように座っている姿だ。
そうして陽光が降り注ぐ中、5階の窓から外の市場の方角を傍観しながら、独りで「河套王」のビンを置いて、チビリチビリやる。
そのうちすっかり赤ら顔になると、「玲玲!」と呼びつける。
玲玲が恐る恐る近づくと、ささくれ立った手で玲玲のおかっぱ頭を撫でながら、横に子供用の椅子を持って来させる。
そして生粋のモンゴル語で、偉大なる民族の歴史を語り始めるのだった。
祖父の話によれば、漢民族は中国大陸に、全長7300キロメートルもの万里の長城を築いた。
それは主に、われわれモンゴル人の侵入を抑えるためだった。
そしていまでは、世界中から北京を訪れる観光客に、「漢民族の偉大なる遺産」として紹介している。
「ところが」と、いつもここから祖父の言葉に力がこもる。
真に偉大なのは、漢民族に巨大な万里の長城を造らせた、我らがモンゴル民族の方なのだ。
だから世界中から来る観光客は、われわれモンゴル人にこそ敬意を表すべきなのだ。
お前が大人になったら、必ずや北京へ行って、このようなモンゴル人の偉大性を存分にアピールなさい、と。
この同じ話を、玲玲は耳にタコができるほど聞かされた。
だが祖父が逝ってからは、玲玲は、「モンゴル民族の偉大性」のことを、すっかり忘れてしまった。
居間には顎鬚をたくわえた祖父の写真が飾ってあったが、敢えて話しかけることもなかった。
それは、玲玲の両親とて同様だった。
住所不定の祖父から生まれた父は、包頭郊外の郵便配達員になった。
後年、父に聞いたところでは、定住者の凡庸な生活に憧れて、その職を選んだのだという。
実際、父は豪放磊落な祖父とは似ても似つかない小心翼翼とした性格で、酒もタバコもやらず、「偉大なる民族の歴史」にも、とんと興味を示さなかった。
父は、内モンゴル自治区成立40周年に湧いた年の春に、40周年を記念する集団見合い結婚の一組として、同じ地区の郵便局員で、やはりモンゴル族の女性と結婚した。
そして翌年に生まれた一人娘が、玲玲というわけだった。
父母は相当程度の中国語が話せたが、自宅ではやはり、モンゴル語で通した。
そして羊肉料理やバター入り牛乳など、食卓もモンゴル式だった。
このため玲玲は、毎日下校し、自宅のドアを開けたとたん、ラムとバターの交ざり合った匂いがプーンと鼻について、中国から別世界に舞い戻ったような気になった。
万事に厳格だった祖父の面影が消えてから、両親が幾分、快活になったような気がした。
そんな中、母親は、いつの頃からか、職場から女性雑誌の見本誌を持って帰ってくれるようになった。
当時の中国の雑誌の流通は、全国の郵便局経由が主流だった。
人々が職場や自宅で購読したい雑誌があれば、郵便局へ行って購読申請をするのだ。
このため郵便局には、宣伝用の見本雑誌が、各雑誌社から送られてきた。
ところが郵便局員というのは、本の虫は少なくて、誰もが見本雑誌を廃品回収に回して小銭を稼ごうとした。
特にオール・カラーページの女性誌は高く売れた。
そこで玲玲の母親は、周囲に自家製の「女乃皮子」(モンゴル菓子の一種)を配ってコトを収め、娘のために女性誌を持ち帰ったのだった。
もとより、「親の苦労、子知らず」で、玲玲は母親が重たい女性誌を抱えて帰宅するたびに、感謝の言葉も述べずに、それを奪い取って見た。
玲玲が特に感動したのは、創刊したばかりの『新栄』という女性誌だった。
この雑誌は日本の『ViVa』という雑誌を翻訳したものだった。
日本のモデルたちって、何てキレイなのだろう!
玲玲はページを捲るごとに、夢想を膨らませた。
そして、自分もいつかこのキラ星のような世界の仲間入りをしたいと、淡い夢を抱くのだった。
玲玲は、学校の授業で秀でていたのは、歌と駆けっこくらいで、他の成績は凡々たるものだった。
そこで高校を卒業すると、四年生大学への進学は諦めて、地元の短大の観光学科に入った。
とりたてて目標があったわけではなく、単にそこは短大生に一年次からホテルでの実習を課していて、実習のアルバイト代が学費と相殺できるシステムだったからだ。
厳格な祖父の血を引いたせいか、つつましい生活を送っている両親へ、気兼ねしたのである。
玲玲はある日、ホテルの実習の休憩時間に、入口の雑誌スタンド脇を横切った際、偶然、懐かしい『新栄』を見つけた。
より正確に言うなら、『新栄』の表紙モデルの日本人タレントのつぶらな瞳と目が合ったのだ。
そこで、生まれて初めて『新栄』を買ってみた。
20元(1元≒12円)もするとは知らなかった。
夜、帰宅して、久々に『新栄』を読み耽った。
中学生の時に読んでいたものとはすっかり様変わりしていて、オシャレの度合いがますます進化していた。
目次の隣ページに、「中国レディス」のイベントの告知が載っていた。
「あなたも表紙モデルに応募しよう!」
と書かれていた。
優勝者はモデルとして『新栄』の表紙を飾り、かつ日本で研修を受けられるのだという。
まさに雲を掴むような話だった。
翌日、実習先のホテルのフロントで一緒だった同級生の爽に、「中国レディス」のページを見せて、
「私、応募してみようかな」
と切り出してみた。
ボーイッシュな井出達の爽は、一笑に付すかと思いきや、真面目な顔つきで答えた。
「応募してみなさいよ。
玲玲ならイケるかもよ。
長身、小顔でスッと鼻筋が通ってるし、何だか中国人ぽくないエキゾチックな雰囲気を持ってるから」。
その日から、爽の玲玲を見る目つきが変わった。
数日後、
「今晩、アタシが応募写真を撮ってあげる」
と言って、玲玲の手をギュッと掴んで、自宅へ連れて行った。
爽の父親は、小さな石炭の配送会社を営んでいた。
母親の姉の夫が裏手でサウナ兼簡易ホテルを経営していて、その一室を借りて撮ることにした。
爽は、カメラが趣味という爽の父親に、機材の一式を借りてきた。
爽は、いっぱしのカメラマン気取りで、玲玲に様々なポーズを取らせては、フラッシュを焚いた。一通り撮影が終わった時、爽が「汗掻いたから一緒にサウナに入ろう」と誘った。玲玲は生まれて初めて、サウナを体験した。
その後、爽は再び、玲玲を撮影した部屋に引っ張り込んだ。
そして暗がりの中、有無を言わさずベッドに押し倒した。
玲玲は、「静かにしていなさい」という爽の言葉に従い、そのまま体を爽に預けた。
爽は、時間をかけて玲玲の身体をくまなく愛撫していった。
最後は、二人して嬌声を上げて、果てた。
その晩以来、二人の「愛の生活」が始まった。
爽と玲玲は、少しでも空いた時間があると、簡易ホテルの一室に籠もって縺れ合った。
「中国レディス」に応募したことすら忘れかけていた頃になって、北京の『新栄』編集部から電話がかかってきた。
内蒙古自治区では予選会をやらないので、北京まで出て来られるかという打診だった。
玲玲は、「行きます」と即答した。
包頭駅まで見送りに来てくれた爽と、改札口の脇で抱擁しあい、軽いキスを交わして別れた。
北京までの列車の旅は、8時間もかかった。
玲玲は、北京どころかフフホト(内モンゴル自治区の省都)にさえ出たことがなかった。
北京駅に着いてからも、散々迷ってようやく、予選会場の「世貿天階」に辿り着いた。
それにしても、北京の道行く女性たちはオシャレで、圧倒されてしまった。
まるで、誰もがモデルのように、煌びやかに街を闊歩していた。
予選会場の控え室には、何百人という同世代の女の子たちが虫胃集し、出番を待っていた。
一人が控え室へ戻って来ると、次の一人が隣の予選会場の部屋に入って行く。
20mくらいの距離をモデルっぽくしなをつけて歩き、また後方へ戻って、床にガムテープで円が描かれた位置で止まる。
そして名前を名乗って、30秒以内で特技を披露する。
歌でも踊りでもスピーチでも、何でもよかった。
2時間近くも待たされた玲玲は、ようやく番号を呼ばれるや、予選会場の部屋に入り、モンゴル族の女性歌手・口合布爾が謡う『草原母親河』を披露した。
二十歳そこそこの女の子が、一般の中国人には聞き取れないモンゴル語の唄を、演歌調で謡った時、会場はシンと鎮まり返った。
そして玲玲が謡い終えて一礼すると、前方の5人の審査員は、上機嫌になって一斉に手を叩いた。
審査員席中央に座っていた中年女性が、「歌はどこで勉強したの?」と聞いた。
玲玲は正直に、「独学です」と答えた。
玲玲が包頭駅に戻ってきた時、爽はホテル勤務中で出迎えに来られなかった。
駅のロータリーで独り、郊外行きの遠距離バスを待っていると、携帯電話が鳴った。
電話口の女性は、
「来週、北京地区の決勝大会を行うので、再度北京まで来てほしい」
と告げた。
女性の説明によると、北京地区の決勝大会に残ったのは、計30人。
予選会は全国10ヵ所で行っていて、北京地区から全国決勝大会に残れるのは、わずかに3人だけという。
説明を聞いて玲玲が思わずため息をつくと、電話の主は言った。
「でもあなたはもう、北京地区の予選に参加した1500人中、30人に残ったのよ」。
次の休みの日、玲玲は、爽に付き合ってもらい、「娜琳」のホコ天を練り歩いて、上から下まで一通りの服や化粧品、小物などを買い揃えた。
最後は買い過ぎて持ちきれなくなり、急遽、爽が兄貴に電話して応援を頼んだほどだった。
美容師をしているという爽の兄貴は、イエローの「奇瑞」の新車を見せつけるかのように颯爽と現れ、事情を聞くと、
「オレがいまからタダでヘアを整えてやる」
と嘯いた。
玲玲はこの日一日で、これまで貯めた貯金をすべて使い果たしてしまったので、爽の兄の言葉が嬉しかった。
だが問題は、いかに『ViVa』のモデルっぽく見せるかだった。
兄が勤める美容室へ3人で行くと、店長が、「見習いのオマエに何ができる」と一蹴し、結局、3時間近くかけて店長自らがヘアをセットしてくれた。
夜、大仕事を終えた店長は、爽の兄に向かって、「代金はオマエの給料から天引きにするからな」と告げた。
だが兄は、「爽の親友がスターになるためだからな」と呟き、まんざらでもない様子だった。
玲玲の母親は、部屋が服や小物で一杯になったのを見て、呆れて言った。
「アンタのおじいちゃんが見たら何と言うことか……」
翌日、ホテルに休みをもらった玲玲と爽は、包頭駅で待ち合わせた。
そして仲睦まじく手を取り合って、再び北京へ向かったのだった。
(続く)(執筆者:近藤大介・前明治大学講師(東アジア共同体論)、北京在住)
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サーチナニュース 2011/11/17(木) 12:46
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=1117&f=column_1117_019.shtml
<北京女人天下>念願かなって日本に行ったスーパーモデル
両手に大きな荷物を抱えていた玲玲と爽は、前回と違って、北京駅からタクシーを拾った。
そして、「中国レディス」北京大会の決勝会場である「九朝会」へ一路、向かったのだった。
車中で爽は、緊張感で一杯の玲玲の腕を取り、セットした髪を撫でつけながら、
「アンタはきっとシンデレラになれるから」
と囁き続けた。
その実、爽は、生まれて初めて見る北京の摩天楼の風景に、目眩がしてきた。
一方の玲玲は、景色などまるで目に入らなかった。
「九朝会」は、北京の北東の郊外、北京首都国際空港の手前の望京地区、通称「コリアタウン」の入口にある、6000平方メートルもの巨大な劇場式レストランである。
魏晋南北朝の士大夫の邸宅をイメージして創られ、「中国式ルネサンス」をモチーフにした豪華絢爛たる内装は、どこかバチカン宮殿を思わせるものがある。
この舞台裏手の控え室では、北京大会の決勝に残った30人の「スターの卵」たちが、化粧に余念がなかった。
その合い間を縫って、イベント会社の幹部女性が、手前の白板を使いながら、気ぜわしく議事進行の説明をする。
要は大掛かりなファッション・ショー形式になっていて、モデルたちはそれぞれ、水着、ジーンズ、パフォーマンスと、3回舞台に登場する設定だった。
玲玲が着るビキニは、数日前に「娜琳」のホコ天で買ったもので、ジーンズは、「中国レディス」のスポンサーから各候補者に提供された。
最後のパフォーマンスでは、ワンパターンだが、前回も披露したモンゴル族の女性歌手・口合布爾の『草原母親河』を謡うことにした。
前回と違って、会場には多くのメディアや業界関係者が詰めかけていた。
そんな中を、「29番」の番号札を付けた玲玲は、涼しげなブルーのビキニを着て、エイトビートの軽快な音楽に合わせ、多数の視線が待ち受けるスポットライトの中へ飛び込んでいった。
水着に続いて、ジーンズにTシャツ姿で、T台に上がった。
玲玲は、ただ一日限りとはいえ、中学生の時に夢想していた『新栄モデル』になれたことで、えもいわれぬ満足感を覚えていた。
爽がビデオを回してくれているはずだし、将来自分が母親になった時に、子供に見せてあげよう・・。
最後の『草原母親河』を謡っていた時も爽快だった。
自分は北京へ出て右往左往しているが、この都会に住む人々にも、内モンゴルの雄大な草原を見せてあげたいと想いながら謡った。
謡い終えて拍手喝采をもらった時には、北京へ来てよかったと、心底思った。
一度控え室へ戻ってから、最後に30人全員で舞台に上がった。
いよいよ緊張の一瞬である。発表は、「季軍」(3位)、「亜軍」(2位)、「冠軍」(1位)の順で行われた。
「季軍、エントリーナンバー29番、黄玲玲小姐!」
司会者がいきなり、玲玲の名前を読み上げた。
スポットライトが玲玲を照らし、紙吹雪が舞い落ちてきた。
こうして玲玲は見事、全国決勝大会への切符を手にしたのだった。
2位は香港の大学生モデル、1位は北京舞踏学院の女優の卵だった。
玲玲が控え室へ戻ると、27人の女の子が、虚ろな表情で着替えをしていた。
悔し涙に泣き濡れて、立ち上がれない女の子も、少なからずいた。
そんな中を、イベント会社の幹部女性が、「アンタたち早く帰んなさい!」と敗残組をけしかけていた。
その一方で、勝者の3人には猫撫で声で、「荷物は私たちが運びますからいいですよ」と微笑みかけるのだった。
その後は、撮影会、インタビュー、スポンサーへの挨拶回り、そして主催者との食事会と、慌しかった。
夜9時前になって、食事会はようやくお開きになった。
「九朝会」の1階の出口で、爽が首を長くして待ち受けていた。
ワインで乾杯させられて赤ら顔の玲玲を見つけると、「やったぜ、スーパーモデル!」と叫んで、玲玲の両手を握り締めた。
玲玲より爽の方がよほど嬉しがっていて、
「夜行列車はもうないから、今晩は北京で二人、打ち上げだ!」
と息巻いた。
玲玲は、あの控え室で号泣していた敗者たちの姿が脳裏を離れず、素直に喜べなかった。
とはいえ、二人はその晩、北京の「漢庭」(チェーン店の安ビジネスホテル)に投宿し、存分に愛し合ったのだった。
全国決勝大会は、3週間後の国慶節(建国記念日)の連休を使って、3泊4日の船上で行われた。
上海港から韓国最南端の済州島を経由して戻ってくるイタリア豪華客船「コスタ号」である。
玲玲と爽は、パスポートの申請を何とか間に合わせ、今度は中国の「第2の首都」上海までやって来た。
そして、さらに遠路のヨーロッパからはるばる上海埠頭に横付けされた、重量5万t、11階建ての「コスタ号」に、1400人の乗客に交じって乗り込んだ。爽は、「何だか夢見てるみたい」と漏らしたが、玲玲は例によって緊張感に苛まれていた。
決勝大会は、3日目の午後に予定されていた。
深夜に出航の汽笛が鳴ってまもなく、玲玲と爽は、慣れない船室で疲れ切って寝てしまった。
朝、窓辺から降り注ぐ陽光の木洩れ日で目を覚ますと、船はすでに洋上を走っていた。
玲玲と爽は、今回初めて、海というものを目にした。
玲玲は幼い頃、夏になると、祖父と共にモンゴル馬に乗って、よく草原へ行った。
草原には、360度、視界を遮るものがなかった。
在るのは、青い空と緑の大地と自分だけである。
それがいま、大海というものを初めて目の当たりにして、モンゴルの草原と似ていると思った。
そう考えると、何だか力が湧いてくるのだった。
2日目は、朝から甲板に出て、20人でウォーキングの練習をとことんやらされた。
そんな様子を、真剣な眼差しで追っている中年男性がいた。
玲玲は気になって仕方なく、とうとうイベント会社の幹部に聞いてみた。
すると彼女はこう耳打ちしてくれた。
「あの人は日本の有名なモデル会社の社長で、今回の審査員の一人よ」。
そう言われると、いくら練習とはいえ、烈風や断続的に降る驟雨によって、練習を中断するわけにはいかなかった。
豪華客船では、ディスコ、カジノからトップレスショーまであって、賑やかなことこの上なかったが、玲玲はとても楽しむ気分ではなかった。結局、済州島のショッピング・ツアーにも参加しなかった。
復路の3日目の午後、いよいよ8階の大劇場で、全国決勝大会が開かれた。
1000人以上の客が着席し、玲玲もテレビで何度か見覚えのある女性司会者が、開会を宣言した。
続いて挨拶に立った『新栄』の社長が、全国の1万5000人の応募者から、今日の20人が選ばれたことを述べ、優勝者は表紙を飾り、3位までの入賞者は日本へ送って研修させると告げた。
舞台設定は、前回の北京大会決勝の時よりも、さらに一段と豪華になっていた。
まずはお揃いのTシャツを着て歌い、次に一人ひとりがOL風の格好をして現れ、その次は水着に変身して艶めかしく歩いた。
それから一人ずつ、化粧中のポーズを取り、いよいよメインイベントへ――。
それは、一人2分間で、自分の特技を披露することだった。
バレエを躍るコ、ピアノを弾くコ、京劇やチベット踊りを披露するコ、バニーガールになったコ……。
「二十人二十色」の出し物に、1000人以上の観客は、やんやの喝采となった。
玲玲は、ここでも定番の『草原母親河』を謡った。
今回は2分間あったので、3番まで、大海原を大草原に見立てて、存分に謡った。
謡いながら、何度も祖父の姿が脳裏を掠めた。
存命なら連れて来てあげたかったと、つくづく思った。
そしていよいよ、発表の時を迎えた。女性司会者が、「さあ、いよいよ来ました!」ともったいをつけて、音楽とスポットライトで盛り上げる。
そして、「季軍」(3位)から順に発表していった。
「季軍」には、北京大会でも一緒だった香港の女子大生モデルが選ばれた。
次に発表された「亜軍」(2位)には、済南出身の22歳の長身の女の子が選ばれた。
そしていよいよ、「冠軍」(1位)の発表である。
玲玲は、極度の緊張感に加え、先ほどの歌で精も根も使い果たし、立っているのがやっとという状態だった。
「玲玲!!」。
どこからか、爽のハスキーな声がした。
玲玲が暗い会場を見渡す。
「玲玲!!」。
確かに爽の声がする。
「アッ、眩しい」。
玲玲が閃光をかわすように左手を翳すと、後ろから前方に押し出された。
そして拍手の渦。
玲玲が、見事「冠軍」に輝いた瞬間だった。
講評の挨拶に立った日本の有名モデル会社社長は、通訳を通して、
「この優勝者は日本でも十分通用する」
と言って、玲玲の素養を誉めちぎった。
続いて、8階のメインダイニングで、打ち上げパーティが催された。玲玲は、メインテーブル中央の貴賓席を用意された。イベント会社の幹部に、
「今日からアナタはスターなんだから、堂々としていればいいのよ」
と諭された。
誰もが玲玲に笑顔で、グラスを傾けてきた。
ふと向こうを見ると、入口近くの席は、まるで台風一過後の花壇のようだった。
互いに会話もなく、ただ黙々と、出された物を口に運んでいる。
入選を逸したモデルたちが、隅に集められたのである。
玲玲は、彼女たちを気の毒に思い、声を掛けてあげようと席を立ったら、イベント会社の幹部に腕を引っ張られた。
「どこへ行くの?
負け組を相手にしてはダメ! アナタが行って、何の慰めになるっていうの?
むしろこうやって、勝ち組の栄光を存分に見せつけてやった方が、悔しさをバネにして、次のステップに上がれるのです。
それがプロの世界というものよ」
翌朝、コスタ号から下船したら、ロビーにカメラマンが殺到していた。
玲玲は、何のコメントも用意していなかったが、カメラマンたちは、玲玲がただ微笑んでいるだけで満足のようだった。
インターネット上には、一夜にして何百という玲玲の写真が掲載され、翌日には多くの新聞にも載った。
母親には一応、下船してから電話したが、
「大変なことになったわねえ」
とため息を漏らした。
確かに大変なことになった。
包頭駅にも多くのファンが詰めかけ、短大にもホテルにも、気軽に行けなくなった。
そんな中、爽は玲玲の「恋人」であると同時に、マネージャー兼用心棒となって、世話をしてくれた。
コスタ号の決勝大会から1カ月半ほどして、日本のビザが下り、玲玲は東京にモデル研修に向かった。
どこへ行っても言葉が通じないのがもどかしかったが、日本のモデルたちと交流しても、同世代ということもあって、まったく違和感はなかった。
日本滞在中に、嬉しいニュースが一つ、飛び込んできた。ある日本のシャンプーのメーカーが、玲玲をモデルに起用したいと申し出たのだ。
こうして玲玲は、1カ月後に再度、撮影のために訪日し、日本のCMに登場した初の中国人モデルとなった。
セリフこそなかったが、玲玲が大草原で髪を振り乱す姿は、日本の視聴者に、エキゾチックな世界を提供した。
日本のCMに登場した後、中国のCM依頼も殺到した。
また、玲玲が初めて表紙を飾った『新栄』は、たちどころに完売した。
このため、2カ月目、3カ月目と表紙撮影が続き、3カ月連続で表紙を飾った。
このように多忙を極めるにつれ、玲玲は、短大に通えなくなってしまったが、短大は繰り上げ卒業の措置を取ってくれた。
「卒業記念写真を在校生や教職員全員と撮り、今後とも母校を宣伝すること」
が条件だった。
こうして短大を卒業すると、玲玲は「単身」、北京へ出てきた。
「単身」というのは、『新栄』の幹部たちが、爽を無理やり玲玲から引き離したからだった。
スーパーモデルにスキャンダルが起こったら大変というわけで、半ば言い含めるように、半ば脅しつけるように、爽の説得にあたった。
爽はようやく納得して、「もう玲玲とは連絡を取らない」と誓った。
そして心機一転、包頭で兄の美容室を手伝うようになった。
2011年の秋、玲玲は約一年振りに、包頭の実家へ帰ってきた。
今回は、北京から運転手付きのリムジンで送られての凱旋帰郷である。
両親へは十分仕送りをしているというのに、二人とも相変わらず郵便局で働いていて、不在だった。
このため、玲玲はガランとした実家に、自分でカギを開けて入った。
玄関を跨いだとたんに、ラムとバターの混ざり合った懐かしい匂いが鼻を突いた。
居間に上がると、奥に飾ってあった祖父の写真と、思わず目が合った。
「おじいちゃん、たたいま!」。
ごく自然にモンゴル語が口をついて出て来た。
そして写真の埃を振り払い、胸に抱き締めた。
「おじいちゃん、玲玲は万里の長城を越えたよ!」。
半ば涙に咽びながら、モンゴル語で語りかけた。
内モンゴル特有の午後の日差しが翳る頃、玲玲は祖父の写真を元の位置に戻した。
そして、自分が表紙を飾った『新栄』を、そっと写真の横に立てかけた。
(了)(執筆者:近藤大介・前明治大学講師(東アジア共同体論)、北京在住)
』
「重量5万t、11階建ての「コスタ号」」と出てくるイタリアの豪華船とは、先日座礁した
「コスタ・コンコルデイア」
ではないだろうか。
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