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サーチナニュースに<北京女人天下>というのがあります。
何本か載っています。
私ははじめて読みましたが、読み応えがあるので転載してみます。
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サーチナニュース 2012/01/10(火) 15:10
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0110&f=column_0110_009.shtml
<北京女人天下>人治国家の弁護士に疑問を感じ、日本に留学
楊哲は、本当に「変わり者」の父親を持ったものだと思う。
父は朝鮮族の出身で、哲が幼少の頃から、狭い部屋には本が溢れていた。
本といっても、一般家庭にある『三国志演義』や『孫悟空』ではなくて、開いてもチンプンカンプンの難解な書物ばかりだった。
加えて、外国語で書かれたものも混じっていた。
幼い哲が「パパ、この本なあに?」と尋ねると、父は決まってこう答えるのだった。
「これは法律の本だよ。法律というのは、国家という大きな樹木の幹にあたるものだ」
哲は分からないながらも、「ふうん、そうなんだ」と答えて、父との会話は途絶えた。
哲が父を「変わり者」と称したのは、父は普通の人がすることを、ひどく軽蔑していたことも大きかった。
たとえば、北京駅に届いた田舎からの荷物を一緒に取りに行った時のことだ。
荷物の受け取りカウンターは多くの人でごった返していて、一応整列する場所はあるのに、誰もがカウンター前に詰め寄り、自分の名を叫んで手を振り上げ、我先に受け取ろうとする。
そんな中、父は一人だけじっと整列しているのだ。
そして二人が寒さで凍えそうになった頃、ようやく人々が散って、父が自分の名を告げる。すると係員は、
「今日はもう終了時間だから明日朝また来な!」
と叫んで、ピシャリとドアを閉めてしまった。
だがそれでも父は、「哲、明日また来ような」と言って、頭を撫でるのだった。
哲が
「明日はアタシが人の間を潜って一番先に取ってきてあげる」
と言うと、
「そういうのは良くないことだよ」
と言って、再び頭を撫でた。
哲の母親は、哲を出産した時に、出血多量で死亡したという。
だから写真でしか見たことがない。
おかっぱ頭で、目の澄んだ女(ひと)だった。
父は結婚したのが遅く、母とは16歳も年が離れていたという。
両親とも男児を望んでいたため、あらかじめ二人で決めてあった「哲」という男性用の名前を、そのまま女児に付けたのだと、後に父から聞いた。
このため哲は、物心ついた時から、すでに不惑を過ぎた父と二人きりだった。
週に2回、阿姨(お手伝い)が来て、掃除や洗濯をしてくれたが、このオバサンとはあまり馴染めなかった。
父が一度だけ、興奮気味に帰宅したことがあった。
「律師」(弁護士)の資格を取ったというのだ。
「律師って何?」と聞くと、父は茶色い冊子を翳して見せた。
そこには、父の写真と、下に「000002」という番号が書かれてあった。
「お父さんはね、中国で2番目に律師になったんだ。
1番目は、先輩の任建新主任だ。
任主任はこのほど、最高人民法院(最高裁)の副院長に抜擢された。
一緒に来るかと言われたけど、お父さんは断ったよ。
人を裁くより法律を作っている方が性に合っていると思ってね」
そう、父は「法律を作る」という特殊な仕事をしていた。
父は、「法律は作品だ」というのが口癖だった。
その国の文化や思想、哲学が結集された「作品」が法律なのだという。
その後、父が「広東省に出張に行ってくる」などと言って、1カ月くらい留守にすることが何度かあった。
「一緒に連れて行ってよ」とおねだりしても、ただ微笑んで、いつものように頭を撫でるだけだった。
父は同僚たちと地方に籠もって、法律を作っていたのだと知ったのは、哲が大学に入ってからのことだ。
哲は父から、法律を勉強するよう命じられたことは一度もなかった。
父が命じたのは一つだけで、それは日本語の学習だった。
父の父、すなわち哲の祖父は、長春で満州国政府の官僚をしていたと言う。
具体的には、日本語の通訳官として、日満両国の折衝に当たっていたそうだ。
満州国は1931年の満州事変によって日本の関東軍の手で作られ、1945年の日本の敗戦と共に消滅した。
満州国皇帝は、かの有名なラストエンペラーこと、清朝末帝の溥儀である。
満州国は、いまの共産党政権の歴史教科書には、「偽満州国」と表記されている。
つまり共産党政権にとっては、屈辱の歴史なのだ。
そのせいで父は、文化大革命で「非国民」扱いされ、散々な目に遭ったそうだが、それでも「われわれは日本に学ぶことが多い」という持論を曲げなかった。
このような父の影響を受けて育った哲は、大学受験の時、日本語学部へ行くか、法学部へ行くかで迷った。
そこで父に相談してみた。
すると父は、哲に対してしか見せないいつもの笑顔で、意外な提案をした。
「目を瞑って、中華人民共和国外資企業法を開いて、どこか一個所を指差してごらん。
それが奇数条なら法学部、偶数条なら日本語学部だ」。
哲は父の提案に戸惑いを覚えたが、日本語も法律も共に勉強したかったので、どちらへ転んでも構わないと思い、「分かったわ」と答えた。
そこで哲は、父の書斎から「外資企業法」を取ってきて、眼前に置いた。
そして目を閉じて、適当に捲ると、ある一点を指差した。
次の瞬間、父が破顔一笑して叫んだ。
「外資企業は中国国民の経済発展に寄与するものでなければならない。
お父さんが一番心を込めて書いた第3条だ!」。
こうして哲は、中国人民大学法学部に入学したのだった。
大学へ通い出してから、改めて父の偉大さを思い知った。
法学部の教授たちから、「キミは本当にあの楊先生の娘か」と、幾度となく聞かれたからだ。
そうと知ってからは、教授たちの態度が、妙に慇懃になった。
哲にしてみればただの地味でクソマジメな父親だが、法曹界では有名人のようだった。
企業法、特許法、商標法、版権法……。
どれも父の「作品」だと知った。
哲はその一方で、大学で副専攻として日本語も勉強した。
どちらかというと、法律より日本語の方が面白かったし、上達も早かった。
朝鮮族のおかげで、幼少時から片言の朝鮮語ができたため、他の漢族の学生と違って、日本語の学習にそれほど苦労せずに済んだ。
朝鮮語と日本語は、まるで双子の兄弟のような言葉だからだ。
そのため、3年次には日本語能力試験の1級を取った。
哲が法律の勉強に身が入らなかったのは、この国の現状は、法律に書いてあることと随分違うと感じたからだった。
極言してしまえば、中国は法治国家ではなくて人治国家なのだ。
人治国家ならば、法律よりも、いっそ心理学や歴史学などを学んだ方が役に立つのではないだろうか。
ある時、全寮制の大学構内から、春節の休みで帰宅した時、哲は父親に、少し愚痴っぽい口調で言った。
「お父さんはいつも、『法律は国家という大樹の幹だ』と言うけど、こんなに人々が規律を守らない社会で、本当に幹だと思ってるの?」
父は、一瞬当惑したような表情を見せたが、
「お前がこの国の主役になる頃には社会も変わっているさ」
と、ムスッとした調子で言った。
哲は父に、悪いことを言ってしまったと反省し、以後その話題は口にしなくなった。
このように、哲は法律というものに「愛情」が湧かなくなっていたが、それでも法学部を卒業したのは、ひとえに父に対する畏敬の念からだった。
大学を卒業した年の秋に、「律師資格考試」(司法試験)を受けて、一発合格を果たした。
合格発表のあった日、帰宅して父に報告すると、すでに白髪姿の父は、まるで幼児のように小躍りして喜んだ。
正直言って哲自身はそれほどの喜びはなかったが、親孝行ができたと思えた瞬間だった。
中国で本格的に司法試験が始まったのは1985年からで、2001年までは、試験が弁護士・裁判官・検察官の3コースに分かれていた。その中で弁護士コースはあまり人気がなく、少しマジメに勉強すれば、法学部を出た学生なら合格する試験だったのだ。
3コースの試験が統一されて「国家司法考試」となったのは、2002年のことである。
現在では中国の弁護士数は20万人を突破し、訴訟件数も年間約200万件と、アメリカに次ぐ訴訟大国となっている。
弁護士の重要性が増す時代になって、司法試験も狭き門となったわけだ。
哲は、晴れて弁護士資格を取ったものの、すぐに弁護士として活動していく気が起きなかった。
そこで日本に留学することにした。
先輩のツテを辿って、慶応大学法学部の大学院に留学申請を出したら、あっさり合格した。
日本は「弁護士」という職業が大変尊敬される社会だと知ったのは、日本に行ってからのことだった。
その先輩の受け売りで、「弁護士」という肩書きの入った名刺を作ったら、日本で誰に渡しても、「はあ、弁護士さんですか」と言って、頭を下げられたのだ。
日本では、『大岡越前』『水戸黄門』といった「お上が裁く」歴史ドラマが人気を得ていることも驚きだった。
大学時代に「法学史」の授業があり、中国は古代から裁判が盛んだったと教わった。
例えば、紀元前2世紀の漢の時代には、全国津々浦々に至るまで、すでに裁判制度が整備されていたという。
だが中国では、裁判官が主役となる歴史ドラマなど、観たことがなかった。
もう一つ驚いたのは、教授が引率して見学に行った東京地方裁判所の法廷内の光景だった。
まず日本では、どんな裁判でも傍聴できるということが不思議でならなかった。
そして原告と被告の弁護士同士の法廷内での「対決」は、あくまでも法律の解釈を巡る争いだった。
「これが法治国家というものか……」。
東京地裁の地下食堂で、皆でランチを食べながら、哲は今日の感動を、一刻も早く父に報告したいと思った。
日本留学時代は、毎日が三田のキャンパスの教室と図書館と、日吉の寮の往復で、この上なく地味な生活だった。
休日に他の学生たちと連れ立って、繁華街へ遊びに出たり、休み中に観光地を旅行して回ることもなかった。
だが図書館に通い詰めたおかげで、日本の法律には滅法詳しくなった。
5年くらい日本に滞在できたら、日本の弁護士資格も取るのにと思ったが、2年で無事、修士号を取った際に、帰国することにした。
帰国時は、日本に来た時とは裏腹に、「北京で早く弁護士として活躍したい」という逸る気持ちで一杯だった。
(執筆者:近藤大介・前明治大学講師(東アジア共同体論)、北京在住)
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サーチナニュース 2012/01/23(月) 11:56
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0123&f=column_0123_010.shtml
<北京女人天下>日本修行を終えた弁護士の北京での初仕事
北京へ戻った楊哲は、定年退職した父が開いた弁護士事務所に「就職」した。
弁護士事務所と言っても、東直門近くの鄙びたアパートに一部屋を借りただけで、父と、父を慕う数人の若い非常勤のスタッフがいるだけだった。
総経理(社長)の父も、弁護士活動をしているのは見たことなく、専ら諸外国の法律や法曹界の専門誌などを繙いては、雑文を書いていた。
哲はツテを頼って、北京の日本人会が長富宮飯店(ホテルニューオータニ北京)で開いたパーティに入れてもらい、片っ端から名刺を配って回った。
「日系企業は慎重だから、訴訟案件なんかないよ」
と、ある日本人駐在員からは忠告されたが、初めて作った100枚の名刺を全部配り終えると、それだけで一仕事終えたような気分になった。
暮れになって、初めての仕事が舞いこんできた。
父も面識があったある日系大手企業の総経理が、東直門の事務所を訪ねてきたのだ。
哲が事務所で電話を取った時、父に用事があるのかと思ったら、哲と会って話したいことがあるという。
それで哲は、「ではこちらから伺います」と言ったが、総経理氏は強い口調で、「自分からそちらへ行く」と告げた。
この日本人総経理がむさ苦しい弁護士事務所へやって来た時、父は最初の挨拶だけして、二人を慮って外出してしまった。
中古の来客ソファに体を折るようにして腰掛けた総経理は、注がれた紅茶を一口啜ると、
「あなたにこれからある個人的な案件をお願いした場合、費用はいくらかかりますか?」
と聞いてきた。
哲は一瞬、緊張したが、「入社」の際に父から言い渡された通りに答えた。
「案件ごとに請け負うパターンと、時間単位で請け負うパターンがあります。
訴訟案件の場合、3カ月あたり10万元、もしくは勝訴した額の15%が基本です。
時間単位の場合、1時間あたり700元を頂戴しております」
それを聞いた総経理は、
「訴訟案件ではないのだが、それではすべての経費込み、かつ成功報酬ということで、20万元でお願いできませんか」
と言ってきた。
当時の北京市民の平均月収が、1500元程度だったので、20万元と言えば、10年分以上の年収に値する。
その日本人総経理は、
「わが社の顧問弁護士は北京最大の事務所だが、そこへ相談するわけにもいかないことなのだ。
必ず守秘義務を守って欲しい」
と念を押してから話を始めた。
日本人総経理は、何人かいる中国人秘書のうち、会計担当秘書を、ここ一年ほど愛人にしていた。
ところが関係が崩れ、その秘書が先月、退職した。
退職する際、「慰謝料をくれないと関係を社内にばらす」と脅してきた。
冗談かと思って相手にしなかったところ、先週になって、ネット上にその会社のスキャンダルが中国語で載った。
それは、中国企業とのある取引の際に中国側に渡した賄賂の詳細で、知っているのは、社長とその案件の責任者の日本人副総経理(副社長)、それに会計担当秘書だった元愛人の3人だけだった。
しかもご丁寧に、差出人不明のメールが社長宛に来て、そのスキャンダルを載せたサイトのアドレスと、「これから次々に出ますから」と日本語で一言添えてあった。
「私はいま、中国日本商工会の副会長を務めていて、来年春には会長選に出馬するつもりだ。
日本商工会長を経て帰国すれば、次は本社社長ですねと言ってくれる部下もいる。
そんな時に、こんな些細なことで躓きたくないのだ」
やや疲れた様子で一気呵成にまくし立てた総経理は、
「私の個人的な代理人として、彼女に会って来て欲しいのです」
と結んで、頭を垂れた。
哲は、話を聞いて途方に暮れてしまった。
日本留学中に見た、東京地裁の法廷で華々しく検察とやりあっていた弁護士のイメージとは、まるで違ったからだ。
だが何と言っても初めての客であり、かつ成功報酬と言うので、幾分気は楽である。
そこで、「分かりました。やってみます」と答えた。
そして早速、哲がその場から元愛人に電話をかけると、明るい声で出てきて、「アモイまで来るならいつでも会うわ」と言った。
そこで哲は、週末にアモイへ飛んだ。
北京はもう氷点下だというのに、アモイは初秋の陽気だった。
アモイ空港のレストランまで来てくれた元愛人の要求は明快で、
「慰謝料として10万元くれたら、もう何もしない。
私も今後は故郷のアモイで結婚し、平凡に暮らすつもりだし」
と語った。
そこで翌々日の同時刻に同じレストランで再会を約束し、哲は北京へトンボ返りした。
翌朝、日本人総経理が再び哲の事務所を訪れ、現金20万元をテーブルに置いた。
哲は
「10万元と、私の飛行機代だけいただければ結構です」
と申し出たが、総経理は
「私は一度言った約束は絶対に違えない主義だ」
と頑なだった。
哲はその足で首都国際空港に向かい、アモイ空港のレストランで元愛人と再会し、10万元の袋と引き替えに誓約書にサインさせた。
そしてまた北京へトンボ返りし、日本人総経理宅へ誓約書の入った袋を届けた。
玄関先に出てきた総経理は、「本当にありがとう」と言って、両手で握手してきた。
かくして、数日間で9万元以上の収入が舞い込んだのだった。
哲がそのまま弁護士事務所の総経理、すなわち父に手渡したところ、「お前は凄腕だ」と言って仰天した。
だが年が明けるや、再び開店休業状態となった。
中国が訴訟大国になったのは2008年の北京オリンピック後のことで、それまでは人治国家と言われる国だけあって、弁護士が必要とされる場面は、さほど多くなかったのだ。
加えて、日系企業の顧問弁護士事務所というのは、大手の弁護士事務所数社の寡占状態で、新米の個人弁護士が入っていける余地はなかった。
哲は、このまま開店休業状態を続けていても仕方ないので、「新東方」(北京最大規模の語学学校)の日本語教師にでも転職しようかと考えた。
だが思わず父に愚痴ると、
「社会にとっては、医者と弁護士はヒマに限るというものだ」
などと、まるで他人事のように答えるだけだった。
そんな矢先のこと、一通の封書が弁護士事務所に届いた。
父親が、自分宛てにどっさり届いた紙束の中から見つけ出したのだ。
それは、「新日本商工会長就任パーティの案内」と書かれていた。
数ヵ月前にここへやって来た人が、日本商工会長に就任したのだ。
もうすっかり忘れかけていたが、思えばあの仕事が、入社して半年間で手掛けた唯一の仕事だったわ……。
哲は、日本からの留学帰りに一着だけ渋谷のデパートで買い求めた紫のワンピースを着て、パーティ会場の長富宮飯店に出かけた。
広い宴会場は、まるでカラスの巣のようだった。
日系企業の駐在員たちが皆、北京ではほとんど見かけない背広姿だったからだ。
カラスの群れの中でほとんど紅一点だった哲は、立食パーティ会場の隅っこで、懐かしい刺身をつまみながらポツンと立っていた。
会場奥正面の主賓が立つ場所で、多くの人に取り囲まれ、愛想を振り撒かれている新商工会長に挨拶するのも憚られたからだ。
と、「楊さん!」という野太い声が響いたかと思うと、つかつかと新会長がやって来た。
哲が顔を赤らめて、
「商工会長就任、おめでとうございます」
と小声で挨拶すると、新会長は、
「そんなこといいから、今日は私から離れないで」
と言って、哲を主賓の場所まで連れて行った。
そして、以後新会長に挨拶に来た全員に、哲のことを「大変優秀な弁護士だ」と言って紹介したのだった。
かくして再び100枚印刷した名刺は、すべて撒いてしまった。
それから1カ月の間に、哲のもとに、日系企業の総経理連中から電話やメールが殺到した。
興味深かったのは、その多くが「個人的に相談したい」と言ってきたことだった。
そして哲が、「こちらから伺います」と言っても、「いや、私の方から伺う」と答えるのも共通していた。
車付き、秘書付き、家政婦付きで、北京の豪邸を借りて住んでいる日系企業の総経理たちは、実際は、実に多くの問題で悩んでいた。
現地邦人の労働争議から、個人的な金銭問題、愛人問題などなどだ。
そんな彼らにとって、自分が率いる日系企業の業績を上げることが、必ずしも第一義的な目標でないことも知った。
むしろ無難に任期を終えたいと考えている人が多かった。
それは、彼らの人生の目標が、社内での出世競争に打ち勝つことだからだった。
北京での赴任を承諾したのは、次の出世に有利と判断したからに他ならない。
だから北京で高額の商談を成立させた時よりも、むしろ本社から視察に来た社長の接待を無事成し遂げた時の方が、彼らの喜びは深かった。
そのような出世がすべて、肩書きがすべてという日本のサラリーマン社会は、哲には理解が難しかった。
だが、彼らに自分が必要とされていることは、十分理解した。
事実、哲には類い希なトラブル処理能力があった。
自分ではただ運がいいだけだと思っているが、ともかく哲が間に入ると、まるで汚水が清められていくように、トラブルが解決に向かっていくのだった。
とかく感情的になりやすい中国人は、哲が沈着冷静に法律を翳していくと、とたんに無防備になる。
そこで中国側にもある程度、誠意を見せて、7対3くらいで日本側に有利な所に落とし込むのがミソだった。
市内から首都国際空港へ向かう途中の朝陽区東風南路にある労働仲裁委員会で、いつしか哲は、顔が知れた存在になっていった。
仲裁委員(簡易裁判所の裁判官)たちは、哲の顔を見ると、「あなたが来たなら安心だわ」と言って、悪いようには裁かなかった。
北京の狭い日系企業社会では、弁護士・楊哲の名は、「知らないとモグリ」と言われるまでになった。
「最初の顧客」となった日本人総経理は、商工会長になって一年後に帰国したが、帰国前の慌ただしい中、わざわざ哲のために豪華な食事会を開いてくれた。
「私が無事任期を終えられたのは楊さんのおかげだ」。
商工会長がそう言ってビールグラスを傾けると、哲は恐縮したが、同席した父は目を細めた。
だが父は次の瞬間、伊勢エビの活け造りを初めて見て、目を白黒させた。
この商工会長は、後任の自社の総経理に、哲のことを紹介し、引き継いだ。
そうやって後任者に引き継がれることもあれば、引き継がれないこともあった。
哲はそこにも、日本のサラリーマン社会の複雑さを思い知ったのだった。
(執筆者:近藤大介・前明治大学講師(東アジア共同体論)、北京在住)
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