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● レコードチャイナから
● 悠貴徳君が書いた作文
『
レコードチャイナ 配信日時:2012年3月1日 18時12分
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=59218&type=0
日本の小学生の作文表現力はスゴイ!
それに比べ、中国の小学生は…―中国紙
2012年2月29日、日本の小学生が書いた作文が中国のネットユーザーたちに大きな感動を与えている。
中国紙・現代快報が伝えた。
話題になっているのは、2010年の第4回「いつもありがとう」作文コンクール(朝日学生新聞社主催)で最優秀賞を獲得した「ぼくとお父さんのおべんとうばこ」。
当時、広島市立中島小学校1年だった片山悠貴徳(ゆきのり)君が書いた作品だ。
悠貴徳君の父、俊作さんは2007年3月、心臓発作で亡くなった。
悠貴徳君は当時、まだ3歳。小学生になった悠貴徳君はある日、今まで使っていた弁当箱では足りなくなったと訴えたところ、母の恵津子さんが、お父さんが生前使っていた大きな弁当箱を出してくれた。
「お父さんみたいに強くて優しい人になれた気がして、お父さんに会いたくなった」
と喜びを表す悠貴徳君。
「もし、神様にお願いできるなら、もう1度お父さんとお母さんと僕と妹とみんなで暮らしたい」
と寂しさを語る一方で、
「僕が家族の中で一人の男の子だから、お父さんの代わりにお母さんと妹を守っていきます。
お父さんのお弁当箱でしっかり食べて、もっともっと強くて、優しい男の子になります」
と頼もしい言葉も。
作文は最後、
「お父さん、お弁当箱を貸してくれてありがとうございます」
と呼び掛けて締めくくられている。
この作文が28日、中国のマイクロブログで紹介されるとあっという間に2万5000回も転載され、4000件余りのコメントが寄せられた。
中国ユーザーは感動の涙を流す一方、「中国の小学生はここまで書けない」と、7歳とは思えない悠貴徳君の表現力にもかなり驚いた様子。
「気持ちがストレートに伝わってくる」
「最初の一行でもう涙なしでは読めなくなった」
など絶賛の声が上がる一方、
「中国の小学生は美辞麗句を並べ立て、絵空事ばかりを書き連ねる」
「子どもに試験のための作文しか書かせないからダメなんだ」
など、中国の教育体制を見直すべきとの声も多く上がった。
』
ではその作文とは。
検索してみた。
『
朝日新聞 2010年11月30日12時52分
http://www.asahi.com/edu/kosodate/news/TKY201011300226.html
お父さんのおべんとうばこ 心震える片山君の作文
● 表彰式で作文を読み上げる片山悠貴徳君=東京・築地の浜離宮朝日ホール
● お父さんの弁当箱を持つ悠貴徳君=広島市中区
第4回「いつもありがとう」作文コンクール(朝日学生新聞社主催、シナネングループ共催)で、広島市立中島小学校1年の片山悠貴徳(ゆきのり)君(7)が最優秀賞に輝いた。
亡き父へ贈る「ぼくとお父さんのおべんとうばこ」。
全国3万3421点の応募作から選ばれた。
27日に東京で表彰式があり、悠貴徳君が作文を朗読。
参加者は目を潤ませた。
■受賞作の全文
「
おとうさんがびょうきでなくなってから三年、ぼくは小学一年生になりました。
おとうさんにほうこくがあります。
きっとみてくれているとおもうけど、ぼくはおとうさんのおべんとうばこをかりました。
ぼくは、きのうのことをおもいだすたびにむねがドキドキします。
ぼくのおべんとうばことはしがあたって、すてきなおとがきこえました。
きのうのおべんとうは、とくべつでした。
まだ十じだというのに、おべんとうのことばかりかんがえてしまいました。
なぜきのうのおべんとうがとくべつかというと、それはおとうさんのおべんとうばこをはじめてつかったからです。
おとうさんがいなくなって、ぼくはとてもさみしくてかなしかったです。
おとうさんのおしごとは、てんぷらやさんでした。
おとうさんのあげたてんぷらはせかい一おいしかったです。
ぼくがたべにいくと、いつもこっそり、ぼくだけにぼくの大すきなエビのてんぷらをたくさんあげてくれました。
そんなとき、ぼくはなんだかぼくだけがとくべつなきがしてとてもうれしかったです。
あれからたくさんたべて空手もがんばっているのでいままでつかっていたおべんとうばこではたりなくなってきました。
「大きいおべんとうにしてほしい」
とぼくがいうと、おかあさんがとだなのおくからおとうさんがいつもしごとのときにもっていっていたおべんとうばこを出してきてくれました。
「ちょっとゆうくんには、大きすぎるけどたべれるかな」
といいました。
でもぼくはおとうさんのおべんとうばこをつかわせてもらうことになったのです。
そしてあさからまちにまったおべんとうのじかん。
ぼくはぜんぶたべることができました。
たべたらなんだかおとうさんみたいに、つよくてやさしい人になれたきがして、おとうさんにあいたくなりました。
いまおもいだしてもドキドキするくらいうれしくておいしいとくべつなおべんとうでした。
もし、かみさまにおねがいができるなら、もういちどおとうさんと、おかあさんと、ぼくといもうととみんなでくらしたいです。
でもおとうさんは、いつも空の上からぼくたちをみまもってくれています。
おとうさんがいなくて、さみしいけれど、ぼくがかぞくの中で一人の男の子だから、おとうさんのかわりに、おかあさんといもうとをまもっていきます。
おとうさんのおべんとうばこでしっかりごはんをたべて、もっともっとつよくて、やさしい男の子になります。
おとうさん、おべんとうばこをかしてくれてありがとうございます。
」
■お父さん 僕が守るけん
「おとうさんにほうこくがあります」
悠貴徳君は母・恵津子(えつこ)さん(33)、妹の乃莉子(のりこ)ちゃん(4)との3人暮らし。
作文を書いたのは、8月中旬だった。夏休みの自由研究で、お父さんのことを書きたいと恵津子さんに言った。
父の俊作さんは2007年3月19日、心臓発作で亡くなった。
27歳だった。
生前使っていたダイニングのいすに座り、遺影がある仏壇の前で、3時間かけて作文を書いた。
「ぼくはおとうさんのおべんとうばこをかりました」
俊作さんが毎朝、恵津子さんから弁当箱を受け取る姿を、悠貴徳君は隠れて見ていた。
「俊ちゃんが行っちゃう」。
お父さんが仕事に出かけるのがさみしかった。
「おとうさんのおしごとは、てんぷらやさんでした」
店に遊びに行くと、いつも大きな声で言われた。
「ちょっと待っとれー」。
空いている端の席で体を揺らしながら待った。
しばらくすると、大好きなエビの天ぷらをたくさん食べさせてくれた。
「ちょっとゆうくんには、大きすぎるけどたべれるかな」
今年の夏、今までの弁当箱では量が足りなくなり、大きくしてほしいと恵津子さんにお願いした。
お父さんが使っていた弁当箱が棚から出てきた。
「俊ちゃんのエビの味がする」。
その弁当箱でご飯を食べると、そんな気がした。
「俊ちゃんの分。一緒に食べたいだろうから」。
初めて使った時、ふたにご飯を乗せ、一緒に食べた。
「たべたらなんだかおとうさんみたいに、つよくてやさしい人になれたきがして、おとうさんにあいたくなりました」
8月下旬、夢を見た。
仏壇の下からお父さんが出てきた。
「戻って来てよかったね」。
お父さんは「天国におったけど、また来られてよかったよ」と頭をなでてくれた。
大好きなプラレールで遊んだ。夢からさめてダイニングに行くと、お父さんのいすはやっぱり空いていた。
「さみしいけれど、ぼくがかぞくの中で一人の男の子だから、おとうさんのかわりに、おかあさんといもうとをまもっていきます」
10月、恵津子さんが俊作さんのことを思い出し、声を出して泣いていた。
悠貴徳君は歩み寄って言った。
「だいじょうぶ。ママもつらいけど、ぼくもつらいけど、がんばろう。ぼくが守るけん」
泣きながら、恵津子さんの背中をさすった。
「もっともっとつよくて、やさしい男の子になります。
おとうさん、おべんとうばこをかしてくれてありがとうございます」
作文は今、俊作さんの仏壇に供えられている。(山本恭介)
■「家族の温かさ伝わった」「優しさや強さ生き生き」/審査員
27日に東京の浜離宮朝日ホールであった表彰式。
コンクールの審査員に、感想を尋ねた。
作家のあさのあつこさんは「まるで物語。亡くなった人のことを書く作品は湿っぽくなりがちだが片山君の作文は違った。お父さんのことを書きながら片山君を取り巻く家族の温かさも伝わってきた」と目頭をぬぐった。
「お父さんの優しさや強さが生き生きと描かれ、目に浮かぶようだった。お父さんに『ざぶとん1枚!』」と話すのは漫画家の尼子騒兵衛(そうべえ)さん。「お父さんも喜んでいるはず。すてきな『ありがとう』に出会えて私も幸せ」
気象予報士の森田正光さんは「仕事柄、個人的な体験を人に共感してもらう難しさはよく分かっている。片山君にその力があることが作文から伝わった」と驚いていた。
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